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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第4節 狐媚霞 [4]




「霞流さんは、そう思いますか?」
 勢いよく振り仰ぐ美鶴の視線が、霞流のそれと重なる。
 逃げてもいい。霞流さんは、本気でそう考えているのだろうか?
 ラテフィルへ行こう。
 そう提案した瑠駆真の言葉を、逃げるのかと美鶴は責めた。別に逃げるとか戦うとか、そういうつもりで毎日の生活を送っているわけではないが、学校など辞めてしまおうとやたら言ってくる瑠駆真の態度が、ひどく見苦しく思えた。
 霞流は、学校を辞めろと言ったわけではない。だが、辛ければ逃げてもいいのではないかと、口にした。
「霞流さんは、そう思いますか?」
 信じられないと言うような態度で自分を見上げる美鶴の態度に、霞流は優しく笑ってみせる。
「それほど、驚くような事ですか?」
「あ、それは」
 勢いにまかせて問いかけてしまった自分の行動を恥ずかしく思い、美鶴はまた視線を外す。
「別に、驚くと言うか」
「意外でしたか?」
「いえ、そういうわけでは」
 霞流の口から、逃げるという言葉を聞いたのは、確かに意外だった。だが、よく考えてみて、霞流慎二という人間が、どんな困難にも負けないほど強靭な精神力を持っている人間に見えるかと聞かれれば、それは違うような気がする。
 霞流ならば、何か困難にぶち当たった時、逃げるよりもむしろその苦しみを受け止め、受け入れ、身体の中で溶け込ませてしまうような気がする。そうして、受け入れた苦しみや辛さは――――
 美鶴は俯いていた顔をあげた。
 受け入れた苦しみを、優しさに変えてくれる。
 目の奥が、ツンと痛い。
 この人には優しさがある。何ものも受け入れてくれそうな、大きくて暖かい優しさがある。
「霞流さんは、逃げてもいいと思いますか?」
 呟くような美鶴の言葉に、霞流は薄っすらと笑った。
「なぜ? 僕の意見を聞くのです?」
 俺が逃げろと言えば、お前は逃げるのか?
 胸の奥で問う霞流。
 霞流さんが逃げろと言えば、私は逃げてしまうだろうか?
 自問する美鶴。
 瑠駆真の言葉は拒否した。では、霞流の言葉は?
「霞流さんの意見を、聞きたいんです。辛い時、霞流さんなら、時として逃げる事もありますか?」
 わかっている。なぜ自分は霞流の言葉を聞きたいのか。
 母の事、父の事、里奈の事、学校の事。
 事実を知って、でもどうしたらいいのかわからない自分にとって、一番の道標(みちしるべ)は、たぶんこの人だと思うから。
「私、霞流さんの事が好きなんです」
 遠くでボーッと、船が鳴った。



 つまらない。

 慎二は胸の奥で舌を打つ。

「時として逃げてしまってもよいのですよ」

 こんな甘い誘いでも、彼女ならば跳ね返してくるかもしれないと、期待していた。「逃げるなんてできません」などと、毅然と言い返してくるかと思っていた。言い返して欲しかった。
 なのにこの女も、やはり所詮はこの程度のものか。
 京都の夏。嵐山の旅館で、慎二は智論と向かい合った。

「もしあなたに好意を持ってしまったら、傷つくのは彼女だわ」

 息巻く智論に、慎二は答えた。

「そんなコトには、ならないさ」

 ならないで欲しいと思った。自分のような愚者に(ほだ)される人間ばかりではないのかもしれないと、淡い期待も抱いていた。初めて駅舎で相見(あいまみ)えた時の、自分へ向けられた猜疑の視線。ゾクゾクするほどの恐怖でもあり、同時に快感でもあった。
 京都で携帯電話を渡して以来、霞流はしばらくその存在を忘れていた。だが、澤村優輝の件で思いがけず役に立ち、同時に奇妙な高揚感も得た。
 一度も、かけてはこないのだな。
 その後は、いつ掛かってくるかと楽しみにもしていた。
 いつまで我慢できるかな?
 自己愛の強い、お高くとまった女性たちは、たとえ携帯の番号を教えられても自分からはかけない。相手の方からかけてくるのを待ち構えている。慎二はそれを知っているから、逆に電話は決してかけない。
 痺れを切らし、待ちきれなくなり、それでも矜持を捨て切ることができず「せっかく番号を教えていただいたのに電話もしないのは失礼かと思いまして」などと前置きをする女性を心内で嗤う。
 バカな女だ。
 大迫美鶴、君は果たしていつまで待てる?
 だが美鶴は、京都のあの日より一ヶ月が過ぎても、何の連絡もしてこなかった。
 やるじゃないか。逆にこちらの痺れが切れそうになるよ。
 ひょっとして、俺は完全に忘れられているのか? 君にとって、俺などはモノの数にも入らぬと言う事か? それとも、山脇や金本といった異性の方が、俺よりも魅力的だと言うのか?







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